臥龍パンダセンター(その1)

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 今日の日替わりjava作品はスライドショウで、手法はzoom-in。ズームインしながら画像が切り替わります。 使用した写真は、臥龍パンダセンター(その1) です。四川省といえばパンダで、1983年にWWF世界自然保護基金)と中国政府の協力で臥龍自然保護区に造られたパンダの保護・繁殖設備です。設立当時は4頭だったパンダも今では繁殖に成功し徐々に増えています。パンダは今、世界におよそ1000頭しかいないと言わます。絶滅の危機から救うことが出来るかどうか。「臥龍パンダ研究センター」に寄せられる期待は大きいです。2008年5月の四川大地震の被害を受け、臥龍パンダ基地は倒壊しましたが、現在再建中、2011年より徐々に繁殖活動を終えたパンダが移送され帰ってきています。センター内では現在62頭ほどのパンダが生活しています。  パンダ小屋、パンダ幼稚園、パンダ病院などがあり、通常の見学以外に、別途料金でパンダを抱っこして写真撮影や、入場してパンダと一緒に遊んだりできます。
 この臥龍パンダセンターも、四川省地震で壊滅的な被害を受けました。

臥龍パンダセンター

臥龍パンダセンター


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「ここで四川省地震が起きました」

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 今日の日替わりJavzScriptは、画像をスクロールさせビデオカメラで撮影しているよう見せます。
 使用した写真は、「ここで四川省地震が起きました」 です。後漢の末期、道教の前身といわれている宗教集団五斗米道(天師道ともいう) の創始者張陵が布教を始めたのが、ここ青城山。月城湖で船に乗り対岸へ→リフトで高度を稼ぎ→上清宮→条灯亭と巡りました。急な石の階段が多く厳しい暑さには参りました。
 この急峻な青城山で、欧州の観光客が撮影した逃げ惑う観光客をとらえたビデオが四川省地震の3日後放映されましたが、凄まじいものでした。もし二年前私が行った時の事と思うと人ごとではありません。



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青葉城


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中国道教発祥の地 青城山観光 (その2)

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 今日の日替わりjava作品はスライドショウで、手法はskitter1。38種類もの画像の切り替えを一つのプログラムでこなす素晴らしいjavascriptです。切り替えを全部自動にしました。是非最後まで見て下さい。
 使用した写真は、中国道教発祥の地 青城山観光 (その2) です。後漢の末期、道教の前身といわれている宗教集団五斗米道(天師道ともいう)の創始者張陵が布教を始めたのが、ここ青城山。
 月城湖にて船に乗り対岸へ→リフトで高度を稼ぎ→上清宮→条灯亭と巡りました。急な石の階段が多く厳しい暑さには参りました。
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 この急峻な青城山で、欧州の観光客が撮影した逃げ惑う観光客をとらえたビデオが四川省地震の3日後放映されましたが、凄まじいものでした。もし私が行った時と思うと人ごとではありません。

中国道教発祥の地 青城山観光

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中国道教発祥の地 青城山観光 (その1)

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 今日の日替わりjava作品はスライドショウで、手法はskitter。35種類もの画像の切り替えを一つのプログラムでこなす素晴らしいjavascriptです。ANIMATIONSの下にプログラムがあり、ここをクリックすると、スライドショウの手法が変わります。
  使用した写真は、中国道教発祥の地 青城山観光 (その1) です。後漢の末期、道教の前身といわれている宗教集団五斗米道(天師道ともいう)の創始者張陵が布教を始めたのが、ここ青城山。
 月城湖にて船に乗り対岸へ→リフトで高度を稼ぎ→上清宮→条灯亭と巡りました。急な石の階段が多く厳しい暑さには参りました。
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 この急峻な青城山で、欧州の観光客が撮影した逃げ惑う観光客をとらえたビデオが四川省地震の3日後放映されましたが、凄まじいものでした。もし私が行った時と思うと人ごとではありません。

中国道教発祥の地 青城山観光


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都 江 堰 の 景 観 (その4)

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 今日の日替わりjava作品はbublle。画像の中をフワフワといくつもの泡が舞い上がっていきます。
 使用した写真は、都 江 堰 の 景 観 (その4) です。成都の北西59km、灌県の眠江上流にある水利工事跡。初めは都安堰と呼ばれていたが、10世紀以降、都江堰というようになった。この工事は、紀元前3世紀に眠江の氾濫を防ぐために蜀の郡守李泳が指揮をとって始まった。
 大規模な工事は息子の李二郎が受け継いだが、完成するのは彼の死後、数世紀経ってからのことだった。
 都江堰は基本的に魚鴫、飛沙堰、宝瓶ロの三部分からなる。眠江の流れはまず、人工の中洲によって外江(上流に向かって左)と内江(上流に向かって右)に分かれる。外江はそのまま眠江として下流へ流れて行くが、内江は潅既用水として宝瓶口へ流れ込み、さらにいくつかの用水路に振り分けられて成都平原へと流れていく。  都江堰の東岸にある二王廟は、李親子の徳を称えるために、南北朝時代に建てられたものである。はるか昔におこなわれた工事がいまだに大きな力を及ぼしている中国の文明の偉大さを感じる。
 百年かけても築け無かったこの水利施設が完成したのは発想の転換でした。李氷親子の前は丈夫な高い堤防を築けばと考えていたのですが自然の猛威には太刀打ちできなかったのです。そこで蜀の郡守李泳は、川底を深く掘り、堤防を低くすれば良いのではと考え、成功したのだそうです。



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都 江 堰 の 景 観


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都 江 堰 の 景 観 (その3)

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 今日の日替わりjava作品はballoon。画像の中をフワフワといくつもの風船が舞い上がっていきます。
 使用した写真は、都 江 堰 の 景 観 (その3) です。成都の北西59km、灌県の眠江上流にある水利工事跡。初めは都安堰と呼ばれていたが、10世紀以降、都江堰というようになった。この工事は、紀元前3世紀に眠江の氾濫を防ぐために蜀の郡守李泳が指揮をとって始まった。
 大規模な工事は息子の李二郎が受け継いだが、完成するのは彼の死後、数世紀経ってからのことだった。
 都江堰は基本的に魚鴫、飛沙堰、宝瓶ロの三部分からなる。眠江の流れはまず、人工の中洲によって外江(上流に向かって左)と内江(上流に向かって右)に分かれる。外江はそのまま眠江として下流へ流れて行くが、内江は潅既用水として宝瓶口へ流れ込み、さらにいくつかの用水路に振り分けられて成都平原へと流れていく。  都江堰の東岸にある二王廟は、李親子の徳を称えるために、南北朝時代に建てられたものである。はるか昔におこなわれた工事がいまだに大きな力を及ぼしている中国の文明の偉大さを感じる。
 百年かけても築け無かったこの水利施設が完成したのは発想の転換でした。李氷親子の前は丈夫な高い堤防を築けばと考えていたのですが自然の猛威には太刀打ちできなかったのです。そこで蜀の郡守李泳は、川底を深く掘り、堤防を低くすれば良いのではと考え、成功したのだそうです。



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都 江 堰 の 景 観 (その2)

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 今日の日替わりjava作品は、画像を色々な方向にスクロールさせます。画像の端にマウスを置いてみて下さい。マウスの位置の方向に画像が移動します。八方向が設定してあります。移動を停止するには、STOPボタンをクリックして下さい。画像にマウスオンすると、また移動します。その横の紫色のボタンは画像の拡大ボタンです。大きなボタンを押すと拡大し、小さなボタンを押すと縮小します。
 使用した写真は、都 江 堰 の 景 観 (その2) です。成都の北西59km、灌県の眠江上流にある水利工事跡。初めは都安堰と呼ばれていたが、10世紀以降、都江堰というようになった。この工事は、紀元前3世紀に眠江の氾濫を防ぐために蜀の郡守李泳が指揮をとって始まった。
 大規模な工事は息子の李二郎が受け継いだが、完成するのは彼の死後、数世紀経ってからのことだった。
 都江堰は基本的に魚鴫、飛沙堰、宝瓶ロの三部分からなる。眠江の流れはまず、人工の中洲によって外江(上流に向かって左)と内江(上流に向かって右)に分かれる。外江はそのまま眠江として下流へ流れて行くが、内江は潅既用水として宝瓶口へ流れ込み、さらにいくつかの用水路に振り分けられて成都平原へと流れていく。  都江堰の東岸にある二王廟は、李親子の徳を称えるために、南北朝時代に建てられたものである。はるか昔におこなわれた工事がいまだに大きな力を及ぼしている中国の文明の偉大さを感じる。
 百年かけても築け無かったこの水利施設が完成したのは発想の転換でした。李氷親子の前は丈夫な高い堤防を築けばと考えていたのですが自然の猛威には太刀打ちできなかったのです。そこで蜀の郡守李泳は、川底を深く掘り、堤防を低くすれば良いのではと考え、成功したのだそうです。



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